特別連載企画『失敗の本質』から何を学ぶか(7)

 【第7回】

我が国の政軍関係が技術戦略に及ぼした影響(その2)

  (3) 八木アンテナの出自

 ここで「八木アンテナ」の出自を回顧しておきましょう。大正8年(1919)5月、東北帝国大学の工学部創設にともない電気工学科教授に迎えられた八木秀次は、同学科に「基礎と独創の精神を基調とした学風」を樹立することに努力を傾注しました。

  強電であろうと弱電であろうと一切の差別をすることなく研究することを奨励しました。自らも率先垂範して講師の宇田新太郎と共同研究課題である「短波長ビーム」を起点として「超短波用指向性アンテナ」を発明しました。

  大正5年(1926)には、八木と宇田との連名で「Projector of sharpest beam electric wave」が、帝国学士院記事に掲載されました。八木たちは昭和7年(1932)には、超短波通信試験に好成果を収めましたが、その実用化は、酒田と飛鳥との間の一般公衆用の超短波無線電話と、佐渡と新潟との間の警察用電話の僅か2件に止まるものでありました。

 八木はこの指向性アンテナの特許権の期限切れに伴い、商工省に特許期限延長の申請を行ないましたところ、「延長を要する重要な発明とは認め難いので、許可できない」との回答が戻ってきましたことは。前述した通りで大東亜戦争が勃発した昭和16年のことでした。

 (4) マリアナ沖海戦の敗北

 昭和19年6月19〜20日、絶対国防圏の要衝サイパン・グアム・テニアンの攻防をめぐるマリアナ沖海戦が勃発しました。この海戦は、我が空母機動部隊(空母×9隻、航空機×439機)と米空母機動部隊(空母×15隻、航空機×902機)との乾坤一擲の大航空戦でありました。

 我が海軍の偵察機は、米機動部隊の遊弋位置を先んじて早期に発見し、これに対し先制的に攻撃機を発進させました。まさに「早期発見・先制攻撃」という空母対空母決戦の定石を、絵に描いたような我が必勝の態勢でありました。東京の大本営海軍部では軍令部総長嶋田繁太郎大将以下の中枢幕僚たちが、米空母群撃滅の報告を鶴首して待ち望んでおりましたが、攻撃発進の報告以降何の報告もありませんでした。

 夕刻を過ぎて攻撃失敗の報告がもたらせられた時、嶋田総長はガックリして椅子から暫く立ち上がれなかったほどの心理的な衝撃を蒙ったと言われています。しかし、攻撃失敗の原因は、当時は解明されてはいませんでした。

 大東亜戦争敗北後に米軍が公表したところによると、我が空母を発進した第一艦群は、米の科学技術陣が開発した「波長3センチメートルの高性能捜索レーダー」により約270キロメートル前方で捕捉され、この前衛部隊の電波誘導により我が攻撃隊の上空には米海軍の防空戦闘機部隊が待ち伏せし邀撃してきたのでした。

 この米軍の防空戦闘機部隊の邀撃網を突破して米艦艇群の上空に達した我が攻撃機を待ち受けておりましたのは、弾頭に電波送受信機を埋め込ませた近接(VT:Vertical Time Fuze)信管を装着した口径40ミリ以上の高射砲弾の弾幕射撃の槍衾でした。これは砲弾の先端に装着された電波発信機からの電波が航空機に当たり、その反射波を砲弾先端の受信機が受信すると瞬間的に砲弾が破裂するという仕組みになっており、大半の我が攻撃機は目標とする米空母の上空に到達する以前に撃墜されるという「技術奇襲」に遭遇したのでした。

 マリアナ沖海戦の敗北により絶対国防圏の要衝であるマリアナ諸島は、7月に至り米軍が占領することになり、我が国は「不敗態勢」をも喪失することとなり、開戦時の東條内閣は総辞職のやむなきに至りました。

 大正末期から昭和初期にかけて八木博士が東北大学で開発した弱電分野の電波機器が、我が軍部の先見性の欠如により全く活用されることなく、彼らに活用された残念至極な結末でした。

(5) 米の「戦略爆撃調査団報告」に観る我が国の研究開発体制

 昭和20年8月15日、日本の軍事的敗北の踵を接して占領軍とともにアメリカは、「戦略爆撃調査団」と呼称する日本の戦争遂行能力の解明を目的とする大規模な調査研究グループを送り込んできました。

 この「戦略爆撃調査団」の調査の対象分野は、軍事分野に止まらず政治・経済・文化・教育・宗教・民俗など万般にわたる分野の実態解明を企図するものでした。それらの中の科学技術分野の調査研究を担当したのは、マサチューセッツ工科大学学長のカール・コンプトン博士を団長とする「科学技術調査団」がありました。

 早くも同年10月には、コンプトン団長は「日本における科学技術活動の調査に関する報告」において、日本の兵器開発の遅れについての次のような指摘を行なっています。

 すなわち「日本の大学や企業などに在籍していた科学者や技術者は、国際的には最高の水準にある人材が数多く存在していた。特に大学関係の科学者たちは、未開発の科学的な潜在能力を蓄積しており、その能力は陸海軍の技術研究所が抱えていた人的能力を遥かに凌いでいた。日本が国家的な観点からこれらの人的資源を有効に活用しなかったことが、戦時における研究開発に失敗した要因のひとつであった。

 日本の科学技術の進展は、研究開発に適した組織が欠落していたこと、また陸軍と海軍との間で協力体制が欠落していたことなどにより、大きなハンディを背負わされていた。日本には有能な科学者や技術者が多数存在していたという確実な証拠があり、彼らは適切な研究開発組織が準備されていれば、戦時における科学技術上の研究開発活動は、かなりの戦争遂行能力の向上に貢献していたであろう…」…」と。

 つまり我が国の軍事科学技術上の研究開発の失敗は、日本の科学者・技術者たちの能力が劣っていたからではなく、科学者や技術者たちを戦争目的達成のために動員し組織化する観点が生まれなかったところにあったと言うべきかと思います。

 東日本大震災に見舞われるかなり以前から我が国の政府及び中央省庁は、多くの地震学者たちから福島第一原子力発電所の立地条件については、多くの警告を受けていました。しかしこれらの警告を真摯に受け止めた政治家、中枢高級官僚は皆無でありました。

 大東亜戦争時代の政治家や陸海軍中枢幕僚将校たちの行動様式がいかに相似しているか思い知らされ慄然たる思いがします。


横浜商科大学
特定非営利活動法人 キャリア・コンサルティング協議会
NPO法人 日本サーバント・リーダーシップ協会