特別連載企画『失敗の本質』から何を学ぶか(6)

【第6回】

我が国の政軍関係が技術戦略に及ぼした影響(その1)

(1) 大東亜戦争敗北要因の一つである科学技術戦力の劣勢

 先回は、かっての陸海軍の「戦略」概念の乖離、その結果相互の意思疎通に難渋した様を瞥見しました。今回はこの「戦略」概念の乖離が、我が国の物的戦力特に科学技術の研究開発に及ぼした様子を回顧してみましょう。

 大東亜戦争が我が国の軍事的敗北に終わった後、いくつかの敗北要因のなかで最も比重が大きかったのは、総合国力で25倍のアメリカとの物的戦力の圧倒的な格差、特に科学技術能力の格差にあったと言われてきました。この認識は事実ですので間違いではありませんが、私は真実ではないと思っています。

 確かに国力の格差が圧倒的に不利であったことは事実でありましたが、少なくも昭和16年(1941)12月の大東亜戦争勃発の時点では、我が国の軍事科学技術の質的な戦力は英米に対し勝るとも劣らないレベルにありました。

 ところが科学技術戦力の優位は逐次逆転し頽勢をを挽回することができず、3年8カ月に及んだ大東亜戦争の終末は、質量ともに圧倒的に優勢な米軍の物的戦力に敗北を余儀なくされました。

 緒戦の太平洋正面の日米両海軍の質的戦力を比較してみますと。零式艦上戦闘機を嚆矢とする爆撃機、雷撃機などの航空戦力、酸素魚雷、潜水艦、そして46サンチ主砲9門を搭載した戦艦「大和」などの科学技術戦力は、米海軍を圧伏しておりました。

 日本海軍はなぜこの科学技術戦力の質的優位を維持伸長させ続け、軍事的勝利に昇華させることができなかったのでしょうか?

 科学技術の動員・戦力化についての先見性の欠如は、海軍だけではではなく陸軍も同罪でした。本稿では大正13年、東北帝国大学工学部の八木秀次教授が発明した「八木アンテナ」が日本の陸海軍ではなく、敵国であるイギリス。オランダ、そしてアメリカが、実戦配備化し、我が軍を危殆に陥れた事例を素材に我が国の指導層の戦略思考の賢愚について考えてみましょう。

(2) シンガポール占領時の鹵獲文書に驚愕

 大東亜戦争における初期進攻作戦は、予期以上の成果を収め最終目標である蘭印(オランダの植民地インドネシア)のジャワ島を早くも昭和17年(1942)3月7日には占領してしまいました。この間イギリスの東南アジア支配の牙城であるシンガポールが2月25日に陥落しました。

 シンガポールを占領した第25軍は、英軍の高射砲陣地近傍の給水塔の上に鉄骨と銅線を組み合わせたて作られた大きな檻のようなものを見つけました。参謀本部は、これらの装備品などの審査のため技術将校4名の兵器視察班を、第25軍司令部に派遣しました。   

 兵器視察班の一員であった陸軍砲工学校教官の秋元技術中佐は、「電波探知機のアンテナ」ではないかと推察しました。そのうち多数鹵獲した英軍の文書の中に、「SLC Theory」と表紙に書かれたノートに注目しました。「SLC」とは、「Search Light Control」の略であって電波警戒機ではないかと推定しましたが、ノートの至る所に出てくる「YAGI AERIAL ARRAY」という文言に注目しました。

 そこでチャンギー要塞の捕虜収容所にいる約95,000名の英軍捕虜のなかから、ノートの所有者であるニューマン伍長を探し出し、「YAGIとは何か」と尋問しました。するとニューマンは怪訝な表情で「この指向性アンテナを発明した日本の研究者である」と答えました。尋問を担当していた日本軍の技術将校は、日本人が発明したものが日本人の知らない間に敵国が新兵器として実戦配備していることに驚愕し絶句しました。

 南方作戦で欧米諸国の植民地を占領した陸軍は、蘭印のジャワ島でオランダのフィリップス社が作製した指向性アンテナが実戦配備されているのを目撃し同様に驚愕しました。事の重大性に鑑み陸軍は、敵国における「YAGI」アンテナの実戦配備に関する情報を、不仲であった海軍に伝えるという異例の措置をとりました。

 海軍艦政本部の傘下にあった海軍技術研究所では、「八木先生が発明された八木アンテナの価値を見落とした責任の重大性」について大いなる悔恨の念が湧き上がっていました。八木秀次博士が、開戦前に「指向性アンテナ」の実戦兵器化について提言したとき、海軍艦政本部は「敵を前にして自分から電波を出すなど、闇夜に提灯をともして自分の位置を敵に教えるようなものだ。そんな兵器は奇襲を伝統とする日本海軍の戦法になじまない」と却下した前歴がありました。

 日本人が八木博士が発明した「指向性アンテナ」の軍事的な価値に気づかないでいるうちに、英米では先手をとってレーダー用のアンテナとして実戦配備化し、「YAGI ANTENNA」と命名したのでした。

 レーダーすなわち「Radar」(Radio Detection and Rangig)という言葉は、我が国が敗北する前年の昭和19年に入ってきました。それ以降も敗北に至るまで我が国においては、陸軍は「電波探知機」、海軍は「電波探信儀」と呼び、研究開発も別々に行っていました。

 八木博士が、シンガポールの英軍の電波兵器のなかに、自分の発明した「指向性アンテナ」が使用されていたという報せを聞いたのは、東京工業大学の学長に就任した直後の昭和17年4月のことでした。

 陸軍技術研究所の将校から報告を受けた八木博士は、「やはり英国は使っていたね」と淡々とした口調で応え、そして「陸軍は唯我独尊と事大主義で、今に墓穴を掘る。学会では科学動員協会を造って協力を申し出ているのに、軍は機密が漏れるとか幼稚な秘密主義に陥って学会を軽んじている。こんな状態で軍に、画期的な研究開発が生まれる筈がない」と段々口調は厳しくなってき、将校は対応に窮したと言われています。

 そして昭和16年8月で「指向性アンテナ」の特許の期限が切れるに先立ち、八木博士は特許期限延長願いを申請しましたが、特許局は重要発明とは認められないとして却下していました。    (つづく)


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