特別連載企画『失敗の本質』から何を学ぶか(4)

【第4回】

ナポレオン戦争の衝撃と余波

 徹底的に敵である王朝国家の野戦軍を戦場の内外で捕捉撃破しようと我武者羅に決戦を挑んでくるナポレオンに対し、傭兵制の職業専門軍隊の将軍たちは、「ナポレオンという若造は、戦術というものを全く知らない困った奴だ」とこぼしていたそうです。

 今にして想えば時代錯誤的な陳腐な愚痴に過ぎませんが、それまでの持久戦争・消耗戦略といった戦争様相のもとにおける軍事常識からすれば、ナポレオン式の殲滅戦略・決戦戦争の突然の出現に戸惑い、どのように対応したら良いのか旧世代の将軍たちが理解に苦しんだことも無理からぬことだったのでしょう。

 フランス革命後のナポレオンの時代となりますと、徴兵制の採用により規模が増大した部隊・兵力を一人の将軍が直接指揮するのは難しくなってきました。一人で制御し管理するのは能力の限度を超える兵力規模になってきたのです。

 そうなりますと隷下の部隊を幾つかのグループに区分(devided)して師団(devision)なる編成が採られるようになり、それぞれの師団や軍団(corps)を部下の将軍たちに分権して指揮させるようになりました。そこで戦術とは異なった戦略という概念が生まれてきます。

 この戦略・戦術という言葉を識別した提議を与えたのが、ナポレオンに徹底的に撃破されは敗北したプロイセンの参謀将校カール・フォン・クラウゼヴィッツでした。

 彼はフリードリッヒ大王が手塩にかけて育成した精強無比の歴史と伝統を持ったプロイセン軍が、新興のナポレオン軍になぜ敗北したのか、どうすれば勝利を獲得できるのかと苦悩するうちに、そもそも「戦争とは一体何なのか」(What is War ?)という問題意識を抱くに至りました。

 プロイセンは、1806年のイエナ、アウエルシュタットの会戦においてナポレオンが指揮する国民大衆軍によって完膚なきまでに撃ち破られ、雌伏を余儀なくされました。

 クラウゼヴィッツは、この時26歳でアウグスト親王が指揮する大隊の副官でしたが、親王とともにナポレオン軍の捕虜となり、フランスに抑留されるという屈辱を体験しています。この虜囚体験のなかでクラウゼヴィッツは、フリードリッヒ大王の薫陶を受けた誇り高いプロイセン陸軍が、ナポレオン軍の果敢激烈な猛攻に対応のいとまなく敗北を余儀なくされた戦争について深刻に沈思黙考させられました。

 そこでクラウゼヴィッツは、「戦争とは何か?」という問題意識を喚起させられました。有史以来、古代ギリシャ・ローマの時代から戦争あるいは軍事に関する書籍は数多く世に問われてきましたが、いずれも「いかにして勝利を獲得するか:How  to  win ?」という問題意識によるものでした。

 このイエナ、アウエルシュタットにおけるプロイセン軍の敗北体験が契機となって、クラウゼヴィッツは「What is war ? 」という従来はなかった革新的な問題意識をもって、社会現象としての「戦争」を社会科学的な研究対象として真摯な態度で研究に挑戦しました。

 その後征服者ナポレオンは、雌伏したプロイセンなどの王朝国家を率いてナポレオンの支配に屈しないロシア帝国に対する征服戦争を企図しました。1812年6月23日、ナポレオンは諸国軍からなる約60万人に近い同盟軍を率いてモスクワ遠征を開始しました。

 ナポレオンの支配下に叩頭することを潔しとしないクラウゼヴィッツら志ある将校たちは、祖国のプロイセン軍を脱しロシア軍に身を投じナポレオン軍に対する抵抗運動に参画しました。

 レフ・トルストイの大著『戦争と平和』には、実在・架空の人物が約540人登場するといわれていますが、実在の歴上の人物としてはロシア軍の総司令官であったクツゾフ将軍などに加え、プロイセン軍からロシア軍の幕僚将校として活躍したクラウゼヴィッツ中佐も登場します。これはトルストイが、クラウゼヴィッツの労作『1812年のロシア戦役』などを底本にし『戦争と平和』を著述したからであると言われています。

 1812年9月14日、ナポレオンは、約11万人に漸減された兵力でロシア帝国の大都市モスクワを占領しますが、ロシア皇帝はナポレオンの予期に反し講和に応じようとはしませんでした。それだけではなく当時木造家屋が大半であったモスクワの市街に放火し大火災により焦土化し、占領軍の宿営と食料補給を困難に陥れました。10月になりますと例年よりも早い降雪という冬将軍がモスクワを占領したフランス軍を苦しめました。

 食料と暖房に欠乏したナポレオン軍は、10月19日に至り撤退を余儀なくされますが、長大なる撤退経路はロシア軍のパルチザン襲撃を諸所で受け、フランスに無事到着できた兵力は、参戦兵力の約2パーセントに満たない惨憺たるものでありました。

  ナポレオン軍のロシア遠征の失敗後、クラウゼヴィッツは紆余曲折を経てプロイセン軍に復帰しますが、勝手にロシア軍に身を投じたことで国王の不興を買い、ナポレオンの没落後もプロイセン軍における処遇は芳しからず、当時閑職と見做されていた陸軍士官学校の校長職を12年間も続けることになりました。

 しかしこの不遇の閑職に在ることを余儀なくされたことが、クラウヴィッツが1806年の屈辱的な敗北以来抱き続けてきた「What is  war ?」という研究課題に真面目に取り組む時間的な余裕を恵んでくれました。

 クラウゼヴィッツの死後の1832年、未亡人マリー・フォン・クラウゼヴィッツの手で刊行されることになった不朽の名著『戦争論』の原稿は、軍人としては不遇を囲っていた12年間という貴重な研究時間なしには執筆は不可能であったと言って過言ではありませんでした。

  『戦争論』でクラウゼヴィッツが喝破した「戦争とは、我が意志を相手に強要する力の行使であり、他の異なれる手段をもってする政治的交渉の継続である」という戦争の定義が、歴史上初めてなされたのでありました。

  この「戦争とは何か?」という課題に対するクラウゼヴィッツの定義づけについて、先陣を切って賛辞を贈ったのは、カール・マルクスとともに『資本論』を執筆したフリードリッヒ・エンゲルスでありました。すなわち「この『戦争論』は、軍事学書の一等星である」と賞賛し、従来の軍事学書にはなかった「戦争本質論」に挑戦した画期的な社会科学書として評価したのでありました。

 さらにクラウゼヴィッツは、古代ギリシャ・ローマ時代に発祥した「戦略・戦術」概念の区分理念が不明確かつ曖昧模糊としていたことに対し、「戦略が旨とするところは、戦争目的を達成するために戦闘を使用する仕方にある。戦術は、戦闘において戦闘力を使用する仕方を指定する」と明確に区分して定義づけをしたのは、軍事学史的にも画期的な業績でした。

 


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